あの男性(ひと)がやってきたのは2学期の途中、そうです、そろそろ秋の気配を感じる風が吹き始めるころでした。
教室の大きな窓から吹き込んできた風のようにあのひとはやってきました。
転校生でした。 本当に冷たい風のようなひとでした。
でも、あたしには、その風がとても心地よかったのです。
お風呂に入った後、お散歩に出かけた時に感じる風のように。
クラブ活動を終えた帰り道に、あの丘の上で感じる風のように。
遠足で行った高原で、あたしの頬を一瞬なでる風のように。
あのひとは、遠く遠くから風と一緒にやってきました。
この田舎町よりも、ちょっと都会だったようです。
クラスメイトも、そしてあたしも、その風が教室内で吹くことにためらいがありました。
だって、
その風は、香りが違ったからです。
その風は、ぬくもりがなくて冷たかったからです。
その風は、少し湿っていたからです。
でも、
あたしは、その風に優しさを感じていました。
あたしは、その風に抱かれてみたいと思っていました。
あたしは、その風を思い切り吸い込んであたしの中に入れてみたいと思っていました。 いつもは優しいあたしのクラスメイトも、その風が教室に流れ込むことを許しませんでした。
なぜでしょうか。 やはり、
その風は、香りが違ったからです。
その風は、ぬくもりがなくて冷たかったからです。
その風は、少し湿っていたからです。
あのひとが連れてきた風は、そのうち、すっかり弱々しい風になってしまいました。
もう風ではなくて、教室にある普通の空気に混ざってしまい、あの香りはなくなってしまいました。
クラスメイトも、馴染めなかった新しい風が吹かなくなって安心しているようでした。
3年生になっても、あたしはあのひとと同じクラスになれました。
もう、あのひとには、あたしの好きな風を感じることができません。 そして、その日は、突然やってきました。
やっぱり、2学期の途中、そろそろ秋の気配を感じる風が吹き始めるころでした。
朝のホームルームの時間に、あのひとは教室の前に立って、みんなに別れの挨拶をしていました。
あのひとは、やってきた時とくらべると全然元気がなくて、まるで空気が抜けた風船のようにしぼんでしまったように感じました。
通り一遍のあいさつが終わりました。
その時、あたしは、あの心地よい風を肌に感じていました。
だから、あたしは立ち上がって、開けっ放しだった教室の大きな窓を急いで閉めました。
この風は、絶対にこの教室から出したくありませんでした。
だって、
あたしは、その風に優しさを感じていました。
あたしは、その風に抱かれてみたいと思っていました。
あたしは、その風を思い切り吸い込んであたしの中に入れてみたいと思っていました。
あのひとは、そんなあたしの姿をちらっと見ると、大きなスポーツバッグを持って、ほとんど無表情で教室から出て行ってしまいました。
あたしのことを、クラスメートが不思議そうに見ていましたけど、そんなことはかまいませんでした。
徐々に、あのひとの風が教室から消えていってしまいました。
なぜだか説明はできないけれど、あたしは教室から出て、あのひとの後を追いかけました。
あのひとの姿はみえなくても、あのひとの後には、あの素敵な香りが残っていました。
あのひとは、あの丘の上に立っていました。
そこには、強い風が吹いていて、あたしは今にも吹き飛ばされてしまいそうでした。
やっと、あのひとのそばにたどり着きました。
あのひとは、あたしに向かって言いました。
でも風が強くて、とぎれとぎれにしか聞こえてきません。
「ぼくの… 風はきみに… でも… ここから離れても… いつか…きみと… この風に気づいたら… いいかい?」
あたしは、
「もちろんよ。あたしをあなたの風で包んでちょうだい。そして、一緒に連れていって。」
こう言って、目を閉じました。
すると、風があたしの体をすっぽりと包んでいることに気がつきました。
その時、
あたしは、その風に優しさを感じていました。
あたしは、その風にもっと長く抱かれてみたいと思っていました。
あたしは、その風を思い切り吸い込んであたしの中に入れてみました。
風がだんだん弱くなって、心地よい香りだけがあたしのそばに残っていました。
目を開いて見ると、あのひとはいなくて、丘の下、遠くの方で土埃が舞っているのが見えました。
それ以来、あのひとと連絡はとれていないし、どこにいるのかも分からなくなってしまいました。
でも、あたしは時々、あの丘で風が吹くのを待っています。
あのひとは、絶対にあたしを迎えに来てくれるはず。
その時には、優しい風に抱かれて、そしてその風を思い切り吸い込んであたしの中に入れてみようと思っています。
あのひとは、それを許してくれるはずです。
優しい風であたしを包んで、あなたの住む街に連れていって…。
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